歴史小説の技法 I――歴史小説の類型/ i

 i  二種類の歴史小説

 『ミドロジアンの心臓』という小説があります。出版は1818年。作者はウォルター・スコット。エディンバラに住む法律家で、スコットランド最高民事裁判所の高級書記官を務める傍ら、友人とやっている出版社から名前を記すことなく小説を出版していました。専業の小説家はごく僅かで、一般には生計を立てられる職業と見做されておらず、他に社会的な地位を保障する職業を持つか一生働く必要のない財産を持つかする人物——つまり紳士淑女の趣味的なものとしては許容される程度であった時代のことです。実際この時には彼自身も、自分の書く小説が次々に訳されて全欧規模でヒットし、スコットランドが所謂聖地巡礼の対象になり、今日でも上演される幾つものオペラの原作になることなど考えていなかった筈です。
 筋書きを掻い摘んで説明しましょう。出版の年から八十年ほど前、十八世紀のエジンバラの近郊にある家族が住んでいます。信心深い頑固者の父親と娘二人。姉はしっかり者で、妹は美人。この妹は街で住み込みの売り子をしていたのですが、若い男に誘惑されて子供を産み落とし、この子供は生まれてすぐに何者かに連れ去られて、妹は嬰児殺害の罪で裁判に掛けられます。密かに子供を産みその子供の所在が確認できない場合は、遺体や殺害の証拠や目撃証言がなくとも殺したと見做して死刑、というのが法律だったからです。妹を救う為には、姉娘は予め妊娠の事実を聞いていたので密かに産んで殺す意思はなかった、と偽証しなければならない。厳格な長老派の一家には苦しい選択です。姉は良心に従って、何も知らされていなかったという事実を法廷で証言し、妹は死刑の判決を受けます。執行は七日後。法廷では偽ることなく証言した上で、その七日の間にロンドンへ行き、女王に訴えて恩赦を勝ち取り、戻って来る、というのが姉娘の選択だった訳です。
 地味な背景ながら波乱万丈の小説です。サスペンスもたっぷり。謎も——例えば妹の恋人は一体何者なのか、生まれた子供はどこに行ったのか——てんこ盛り。地元では英雄視される密輸人の処刑直前の逃亡、暴動、死刑執行といった見せ場にも事欠かない。アーガイル公を始めとして実在の人物もぞろぞろ出て来る。十九世紀前半の小説の書き方やテンポに馴染みさえするなら、極めて面白い小説だ、と言えるでしょう。スコットの小説で有名なのは『アイヴァンホー』ですが、私としてはこっちの方が好きですね。
 スコットのスコットランドを舞台にした何篇かの小説——ウェイヴァリー小説群、と呼ぶようですが——は、歴史小説が今日言うところの歴史小説になった最初期の作例です。今日言うところの、とは、考証が問題にされるような、という意味だとお考え下さい。登場人物が銃をぶっ放すとして、当時の銃はそんなに簡単に撃てるものだったのか、手に入ったのか、そもそも存在したのか、をあれこれ言われるような、と言えばおわかりでしょうか。歴史ファンタジー小説とも言うべきものは十七世紀のバロック小説には幾らでもありましたが、史実とされるものを忠実に反映することを条件にする小説はおそらくスコットが最初でしょう。
 ちなみにミドロジアンとは、エジンバラ一帯の古名です。その心臓とは、町の中心部にあった監獄のことです。法と刑罰の象徴であり、イングランドによる支配の象徴です。イギリスの一部に組み込まれ、イギリスの法秩序を押し付けられたことで生じる混乱と反感が小説の中心です。冒頭の処刑は密輸人の処刑で、自生的な経済秩序が統治の都合で分断されたところで活動する密輸人は、ヨーロッパのあちこちでしばしば英雄視されました。スコットランドもその例に違わず、地続きのイングランドよりは海を隔てたオランダとの経済的繋がりが深かった。品質において劣るイングランド製の針では仕事にならないと女たちが愚痴るという話が出て来ます。だからオランダから密輸で商品を運ぶ訳ですが、イングランドの法では罪になります。妹娘を裁く法にしても同様です。産み落とした筈の嬰児の不在を以って殺害と見做す、という理不尽は、嬰児殺しの多発に業を煮やしたイングランドの統治者の苦肉の策ですが、多発自体が支配者の被支配国に対する、富を持つ者の持たない者に対する、男性の女性に対する抑圧を語るものであり、その結果だけをより容易に罰する為に、通常なら正当とは見做し難い条件を以って有罪とすることは偽善でしかありません。
 そういう対立を調停するのが、ロンドンの宮廷でも重用されているスコットランドの大貴族アーガイル公、という構造は、同じくウェイバリー小説群の一作である『ロブ・ロイ』などにも見ることができます。『ミドロジアンの心臓』では、スコットランド魂を象徴する些か筋の通り過ぎた姉娘を女王に引き合わせる役どころです。姉娘はアーガイル公の仲介によって女王に謁見して堂々と、ただし礼を失することなく交渉し、恩赦を勝ち取ってエジンバラに戻り、妹を救い、かくてイングランドの統治の正統性とスコットランド人の精神的な独立性もまた調停される訳です。
 ただし史実においてはその後十年を経ることなくスコットランドは反乱を起こし、武力鎮圧によって統合される、ということは、当時の読者もよく知っていたことでしょう。イングランドとの統合を損なうことなくスコットランドの精神的独立を示すことこそが「ミドロジアンの心臓」の主題ですが、それが幻想であることもスコットは知っていた訳で、そういう意味では非常に苦い小説であることも確かです。

 この構造が示すのは、歴史小説はそもそもの最初から、歴史上の出来事をお話の形で語るものでも小説の形で再現するものでもなかった、と言うことです。スコットは、歴史上の出来事をどう解釈しどういう意味を持たせることができるか、から筋書きや登場人物の配置を割り出しています。幾つかの場所、事件、人物は実在し実際に起こったとされていることですが、主要登場人物や主な筋書きに属する事件は架空であり、それを史実とされるものの間に紛れ込ませることで、「ミドロジアン」は構成されています。
 背景となる歴史的状況自体は一応史実通り、主筋と主要登場人物は架空、この組み合せによって書き手が対象となる時代を小説として成立させる——これは歴史小説の一つの類型で、ヨーロッパやアメリカの歴史小説の殆どはここに属します。スコットの数多くの小説、アレクサンドル・デュマの「三銃士」をはじめとする諸作、トルストイの「戦争と平和」、シェンキェーヴィチの「クオ・ヴァディス」、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」等など。別な要素を含むので後で触れますが、サルマン・ラシュディの「真夜中の子供たち」やオルハム・パムクの「私の名は赤」もここに入ります。非常に特異な形式を取っていますが、キニャールの「アプロネニア・アウィティアの柘植の板」もこのタイプを解体再構成した作品です。歴史アクション、歴史ロマンスとなると枚挙の暇はありません。主人公は歴史上有名な王侯貴族——に仕える架空の文官や剣士、或いは実在した王妃や寵姫——に仕える架空の侍女や姉妹で、史実とされる状況や事件——の裏で戦ったり陰謀をしたり恋をしたりする訳です。
 日本でならこの種の小説は、時代小説、と呼ばれるでしょう。何故なら、特殊日本的な状況において歴史小説とは歴史を動かした英雄偉人の事績を、英雄偉人を主人公に、周辺人物も殆ど実在の人物で固めて、ただし架空の人物を描くのとほぼ同じ描写や心理を交えて書くものが主流だからです。どなたでもひとつや二つは読んだことがおありでしょうから、「ミドロジアンの心臓」のように粗筋を纏めることはしません。というより、粗筋を纏めることにはほぼ意味がありません。何故なら、この場合、粗筋はイコール史実とされる出来事であるからです。