歴史小説の技法 I――歴史小説の類型/ 余談

何故架空の人物? 一つの仮説

 ヨーロッパやアメリカにおける歴史小説が何故架空の人物を主人公に据えるかについて、一つ仮説を提示しておきましょう。十七、十八世紀におけるジャンルのヒエラルキーが緩んでいく過程で発生しているから、というものです。
 少し脱線になりますが、このジャンルのヒエラルキーについて説明しておきます。
 十七世紀十八世紀には、絵画においても演劇においても文学においても、それぞれの中のジャンルには価値の高低が与えられていました。例えば絵画においては、どれほど見事な描き方をしたとしても静物画と風景画は最下層に位置付けられます。人間ではなく死んだ物(ナチュール・モルト)を描いているからです。人間を描いても、その人間が何者なのかによって価値が決められます。一般庶民の様子を描いた絵は風俗画と呼ばれて一番下に置かれます。王侯の歴史的業績を描いた絵はそれより上と見做され、古代ギリシャ史ローマ史の出来事を描いた絵はその上、人ではなく神々を描いた絵や抽象概念を擬人化して描く寓意画はさらにその上に来て、頂点にキリスト教絵画がある、というヒエラルキーが想定されており、フランスの王立美術アカデミーはこのヒエラルキーに基いて会員を入会時に区分していました。画家で言うとブーシェは歴史画の画家ですが、シャルダンはそれ以外です。演劇においても同様で、王侯や神々や古代の英雄が主人公となる芝居——ほぼ全て悲劇——に比べると、一般市民が主人公の芝居——主に喜劇——は低く見られていましたし、これはオペラにおけるセリアとブッファの区別にも適用されます。文芸においてもほぼ同様です。何故なら、ここがポイントですが、繊細な心の動きや激しい心理的葛藤、英雄的な決断や自己犠牲は貴族や王侯には相応しいが町人や農民にはないものとされていたからです。
 食うや食わずの生活をしていたら、それは確かにそうでしょう。ただし十八世紀の経済的・社会的発展の結果、町人や農民の生活と教育水準の向上(十八世紀後半のパリでは従僕や商店の従業員も二、三十冊の蔵書を持つことは稀ではなかった、と言います)、それ以上に法曹、軍事、商業金融による市民層の財産形成と階級上昇により身分制の枠組みは揺らぎ始めます。マリー・アントワネットの取り巻きの貴族たちの多くは金融その他で三代ほど前に財を築き爵位を買った成り上がりだったと十八世紀史の研究者ロバート・ダーントンは書いています。かくて身分制度と密接に結び付いていたジャンルのヒエラルキーが疑わしいものになっていくのが十八世紀という時代です。ヴォルテールやポンパドゥール夫人に繊細な心の動きや葛藤が無縁なものだと考える人は同時代にもいなかったでしょうが、どちらも極めて富裕とはいえ市民層の出身です。ディドロやルソーの出身階層はそれより更に低かったことも付け加えましょう。
 そういう社会において芸術におけるジャンルのヒエラルキーを批判し攻撃することが極めて政治的な意味を持つことはおわかりでしょう。何故、サン・ジェルマン・デプレの市で静物画を売るところからキャリアを始めた画家は、貴族や同等以上の生活を享受する金融家の屋敷に飾る半裸の女神の絵を注文で描く画家より低く見られなければならないのか——二年毎に開かれる王立美術アカデミーの展覧会に群がる最初期の美術批評家たちが無検閲で出版できるパンフレット(全紙一葉分に文字が収まるなら検閲は省略されていました)で盛んに攻撃したのはそういう点で、ディドロの美術批評も、国外向けとはいえ、そういう話題にしばしば触れます。現実から遊離したジャンル・ヒエラルキーへの異議は現実から遊離した身分制社会への異議でもあった訳です。
 後で触れることになるヘイドン・ホワイトが、もしかすると意図的に、無視しようとしたのはこのジャンルのヒエラルキーです。ホワイトは、歴史記述は事実の記述と言うよりは記述者が「史実」から恣意的に切り出して纏めるフィクションだと唱え、十九世紀の歴史家の記述が寄って立つレトリックによってロマンス、悲劇、喜劇、風刺劇に分類して、それぞれが歴史記述者の世界認識に対応していると論じるのですが、前段で十八世紀の歴史記述に触れる際、こうした区分が既に掘り崩されつつあったとはいえ厳然として存在し、論争の種になっていたことを考慮していません。ヴォルテールが散文で同時代のある国王の業績を滑稽に描くとしたら、レトリックの分類などするまでもなく、それはジャンル撹乱的であり、同時に身分制の撹乱を意図してもおり、ロマンスでも悲劇でも喜劇でもなく風刺劇であることに完全に自覚的だったと考えなければなりません。早い話、王はただの人としてネタにされて弄られた訳です。
 何故こんな話をするかと言えば、ジャンル・ヒエラルキーの解体がヨーロッパ型の歴史小説というものの本質に関わるからです。
 ディドロは「一家の父」という作品で、ドラマ・ブルジョワーズ、市民のドラマ、というジャンルを作り出そうとしました。この「ドラマ」はほぼ悲劇と同義であり、つまり、悲劇は英雄や王侯を主人公とするものだというジャンル・ヒエラルキーへの挑戦です。ボーマルシェは「フィガロの結婚」の後、同じ人物を使って、喜劇ではなく、十九世紀に入るとメロドラマと呼ばれることになるであろうジャンルを試みました。その「フィガロ」のオペラ版台本を手掛けたダ・ポンテは、同じ作曲家と組んだ「ドン・ジョヴァンニ」をドラマ・ジョコーソ——笑える悲劇と銘打っています。
 しかしそこで当然の疑問が湧いて来ます。散文によるフィクション、即ち小説としてなら、そんなものはとっくに幾らでもあったんじゃないの? マノン・レスコーでもモル・フランダースでも何でも、挙げることは容易です。小説は、ジャンル・ヒエラルキーにおいては演劇より低い場所で、王侯でも英雄でも神々でもないそこらのただの人のささやかな生と感情をあけすけに、笑いあり涙あり悲惨ありのジャンル混合的に、既に扱っていた訳です。
 ジャンル・ヒエラルキーは、解体され続けながらも二十世紀まで生き延びます。極めて分かりやすいのはグリフィスの「イントレランス」です。一本の映画の中で四つの異なる時代がシャッフルされて展開されるのですが、現代アメリカ篇だけが自由にカメラの動き回る、普通に映画的な映像になっているのが非常に目立ちます。残り三編では人物は演劇のようにあまり動かず台詞を語り(無声映画なので声は入りませんが、口は動いています)カメラはそれを舞台中継のように捉えます。そういう画面こそが「歴史」に相応しいと、グリフィスだけではなく「カビリア」のパストローネもフリッツ・ラングも考えた訳で、特にラングの「ニーベルンゲン」の後編、「クリームヒルトの復讐」のヒロインが、画面中央に直立したままの長大な台詞を唱えるのを微動だにしないカメラで捉え続ける迫力は、声のないオペラでなければかつて歴史画が放っていた最後の輝きを見るようでもあります。
 十九世紀の初めに歴史を敢えて小説として書くという試みが始まった時、ジャンルのヒエラルキーは異議を唱えられ続けてはいたものの、まだ健在でした。英雄や王侯に相応しい形式と普通の人間を描く形式には相違がなければならない、という意識も残っていたということです。歴史上の偉人や有名人の周辺にいた誰かを主人公に据えてその周辺を描くことは、小説という形を採ることを採用した場合、必然だったと言えるでしょう。ヴィクトル・ユゴーは「ノートルダム・ド・パリ」や「レ・ミゼラブル」といった小説で日本では知られていますが、それ以上に詩人であり、「エル・ナニ」他の史劇の書き手でもあった、ということを思い出していただけるとおわかりになると思います。小説の主要登場人物はある歴史的状況を生きた架空の一般人であり、一方、王たちや英雄たちは舞台上で韻文の台詞を語る人物として書くことが相応しいとユゴーは考えた訳です。
 しばしば豪華絢爛な衣装や装置が話題にもなるこうした史劇は、十九世紀の後半まで書かれ続けました。映画が始まった時、歴史を扱う際に参照されたのはこうした舞台であり、映画をただの物珍しい見世物から演劇と同様の芸術の域に押し上げるには、史劇を模倣することが一番だと、当時は判断された訳です。結局、史劇は映画に取って代わられ、歴史小説だけが架空の、歴史的状況を経験する一般人を主人公とするものとして残ります。実在した歴史上の人物の生い立ちや人となりや業績、或いは歴史上の出来事を扱うのは、今日では専ら伝記や実録の仕事です。と言っても多くは時としてはあられもなくエンターテインメント的で、論文は勿論小説を書く際にも参考文献に使ってはいけないものですが。日本語の翻訳があるシュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット」や「ジョーゼフ・フーシェ」、アンリ・トロワイヤの「エカテリーナ二世」や「アレクサンドル一世」などは上澄みの上澄みです。昨今ではヒストリーチャンネルが放映しているような歴史ドキュメンタリーも同種のものと見ていいでしょう。塩野七生はこういう歴史実録を日本で書く数少ない書き手で、そういう意味ではいい仕事をしているといっていいでしょう。諸般のあまり麗しくない事情から、おそらく彼女の後には誰も、この分野を日本で書き継ぐ人はいません。この国では、そうしたものも小説として書かれるのが普通なのです。