『黄金列車』についての覚書 V

ハンガリー王国のユダヤ人政策  

――ドイツとの駆け引き

ドイツにハンガリー王国が接近し、一蓮托生の運命を辿った最大の原因は、既に触れた領土問題にある。トリアノン条約で領土を三分の一にされたハンガリーは、条約撤廃を求めるなら戦後秩序に不満を持つ国に接近せざるを得ない。その最たる国がドイツだった。

1933年、ドイツでナチス政権が成立すると、前年首相になったばかりのゲンベシュが訪独、1927年にイタリアとハンガリーの間で締結済みだった同盟への参加を求める。ムッソリーニは既にトリアノン条約の見直しに同意しており、同盟への参加とは、そこにドイツも加わるということになる。肯定的な反応はなかったが、翌1934年には経済協定が結ばれる。ハンガリー側は国内の農作物を買い入れて輸出することでドイツへの債務弁済に当て、ドイツ側はそれを売った代金で工業製品を購入して輸出、結果的にハンガリーの負債が帳消しになり、双方の景気浮揚に役立つ、という協定である

この結果、1936年には、ドイツへの輸出は3倍、輸入は2倍に増加、ドイツとの貿易はハンガリーの対外貿易の1/4を占めるに至る。1937年のオーストリア併合後はドイツとは国境を一本隔てるだけになり、貿易総額は1/2まで増加した。今やハンガリー経済はドイツ頼みだ。

ただしこの段階では、反ユダヤ政策は採られない。公然と反ユダヤ主義を唱えるゲンベシュ首相ではあったが、政権立ち上げ時には少数与党でもあり、依然議会で多数を握る旧与党には抵抗できなかった。イタリアやドイツに倣った一党独裁への移行は議会の猛然たる抵抗を受けた。ユダヤ系の金融機関は資金を提供することで牽制した。何より摂政ホルティと取り巻きの貴族たちが大衆運動起源の反ユダヤ主義を制度化することには同意しなかった。ファシズムごっこが許容されるのは、大衆運動を国家を束ね統治の基盤を強化するところまでである。ゲンベシュは後の反ユダヤ法の草案を作るが、公布されることはない。不満をつのらせた反ユダヤ主義諸団体は過激化し、ドイツ由来の人種的反ユダヤ主義を掲げる団体も現れ、ブダペシュトではシナゴーグに手榴弾を投げ込むグループまで出現したが、目に余ると弾圧され、指導者は収監された。後にナチスの占領下で擁立されるサーラシはそうした一人で、この収監を神に選ばれた者の受難として利用した。もともと、聖母マリアが夢枕に立ち、ハンガリーを救ってくれと頼んだ、と主張するような人物である。

おそらくハンガリー側は国内の反ユダヤ主義を適宜盛り上げたり圧迫したりしながらドイツを手玉に取れると考えていたのだろう。ラウル・ヒルバークは「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」の中で、この時期のハンガリーの内閣は反ユダヤ主義政策に熱心な内閣といやいやながらの内閣が交互に現れる、と書いているが、それはむしろ駆け引きの一部と考えてもいいかもしれない。

ゲンベシュの後を継いだ首相ダラニーの内閣はゲンベシュの法案を議会に提出するが、議会を通過する直前に辞任を余儀なくされる。公布は次のイムレディが首相になった直後の1938年5月で、商業・金融・各種専門職に占めるユダヤ教徒の比率を20%に制限するものだった。

1938年の夏はズデーテン問題で過ぎる。イギリスのチェンバレンの仲裁によってドイツが求めるチェコ領ズデーテンの併合を認める方向で決着した時、便乗してスロヴァキアとカルパティア・ルテニアの割譲を求めチェコへの軍事的圧力さえ加えていたハンガリーは、11月、ドイツの裁定によって当該地域の一部を手に入れる。イムレディは次のより厳しい反ユダヤ法の準備を進めたが、翌年2月、実はユダヤ系であろうという噂を立てられ、反証を示せずに辞任した。実際に祖父はユダヤ教徒だったらしい。

イムレディが準備した第二の反ユダヤ法が公布されたのは次のテレキ内閣の下、1939年5月になる。経済活動におけるユダヤ人の比率を更に6%まで下げる、というもので、ユダヤ人の定義は片親または父母両系の祖父母のうち二人がユダヤ教徒であることにまで広げられたが、両親がキリスト教徒、本人が出生時にキリスト教徒、1939年以前に改宗、の場合は除外された。戦争で負傷した者、武勲章を一つ以上受けた者、戦死者の未亡人と遺児、1920年の反革命運動の参加者、裁判所顧問、大学教授、神父と牧師、オリンピック出場者もまた除外された。施行もさして厳格ではなく、免許を必要とする酒類販売業者などは6年の有効期限が来るまでの営業を許される場合があったとも言われるが、職人、サラリーマン、多くの専門職が失業し、貧困化が進んだのは事実である。

4ヶ月後の9月、ドイツ軍はポーランド侵攻に際して領土通過を要請するが、ハンガリーは非交戦国を宣言してポーランドからの戦闘員と避難民を受け入れた。この中には相当数のユダヤ人も含まれていたが、他の地域からの難民も含め1850年にハンガリー王国内に居住していたことを証明できない者約2万人は追い返され、ドイツによって虐殺された。

翌1940年、ソ連がルーマニア東部のベッサラビアを併合する。ドイツはハンガリーに対して再度、軍の通過の許可と、今回は軍事支援をも求める。見返りに提示されたのはルーマニア領になっていたトランシルヴァニアだ。首相は回答を引き延ばしながらルーマニアと交渉を続け、最終的にはまたもドイツの裁定によって、当該地域の北部を手に入れた。

残るユーゴスラヴィア領については、事態は少々複雑である。1940年十一月、ハンガリーは三国同盟に加わり、翌年3月にはユーゴスラヴィア王国も続く。その際、ハンガリーとユーゴの間に恒久友好条約が結ばれている。一説では、首相テレキはアメリカの支持を得てオーストリア・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラヴィアからなるドナウ連邦を立ち上げ、ドイツの支配から抜け出そうと考えていたとも言われる。事実であろうとなかろうと、この野望は三国同盟参加に不満を持ったユーゴ軍のクーデタによって終り、ドイツは軍のハンガリー領内通行と軍事制裁への参加を求め、ハンガリーは承諾を余儀なくされる。不名誉を恥じたテレキは自殺し、ハンガリーはヴォイヴォディナの一部を得る。

その間、反ユダヤ主義団体は更に勢力を拡大し、複数の団体を糾合した例の「神に選ばれし」サーラシの矢十字党は1939年の選挙で議会の240議席中30議席を占めることになる。政府は慌てて彼らを非合法化するが、ドイツの支援を受け人種論的反ユダヤ主義を掲げて地下で活動する彼らの影響は無視しがたいものになっていた。1941年8月、テレキ自殺後のバルドッシ内閣のもと公布された3番目の反ユダヤ法は人種保護法と呼ばれ、ユダヤ人の非ユダヤ人との結婚や性的関係を禁止したが、対象者の定義をユダヤ教徒から人種的なユダヤ人――それもドイツのニュルンベルク法より厳しい2分の1ユダヤ人まで拡大して、ユダヤ系の信徒を抱えるカトリック教会やカルヴァン派を始めとする新教各派の猛反発を招いた。ただしできたことは、翌1942年8月ドイツ軍と共にソ連に進攻したハンガリー軍が伴っていたユダヤ人労働大隊のうち、キリスト教徒のユダヤ人に白い腕章を付けさせることくらいだった。彼らはドイツ兵ハンガリー兵双方から他のユダヤ人と全く区別なく過酷な労働を課され、虐待され、最終的には軍の壊滅によって全滅した。

ハンガリー国内では、開戦直後の9月、最後の反ユダヤ法が公布されている。ユダヤ教を国家の宗教から除外し農地の所有を禁じる法である。最後の、であるのは、ドイツ軍の敗退を見たハンガリー政府が、以後、ドイツがどれほど要請してもそれ以上の反ユダヤ政策を取ろうとしなくなったからだ。それ以上、とは、ドイツの管理下にある強制収容所への移送である。

ドイツ軍の占領下で何が行われているか、は、政府から一般国民まで、既に広く知れ渡っていた。ドイツとの交渉では隠し立てもなく話題にされたし、BBCはハンガリー向け放送で取り上げていたし、ハンガリー国内で匿われているチェコやスロバキアやポーランドからの避難民も多くを知っていた。強制収容所からの脱走者がシオニスト団体に匿われ、情報を提供することもあった。

とは言えハンガリー政府が人道上の懸念から移送を拒否した訳では勿論ない。彼らの懸念は、人道上大いに問題のあるドイツの行動に加担することで、水面下でのアメリカとの交渉が難しくなることにあった。既に取るべきものは不十分ながらも取り、東部戦線でのハンガリー軍壊滅はドイツとの同盟の価値を暴落させた。連合国側に移る潮時である。

1944年3月、アウシュヴィッツ・ビルケナウから二人のユダヤ系の青年が脱走する。収容所内の地下組織の指示で、年明けから大規模な施設拡充の工事が進められていることを外部に知らせる為だ。何の為の施設拡充かは明らかだった――ヨーロッパに施設拡充をしなければ対処できないほどのユダヤ人人口を抱える国は、既にハンガリー以外ない。彼らはスロバキアのシオニストに匿われ、詳細なレポートを機関誌に発表する。発行は4月7日。ハンガリーの離反を察知したドイツが軍を進駐させ、アイヒマン率いるSSの部隊を送り込んだ18日後のことだ。