『黄金列車』についての覚書 IV

ハンガリー王国のユダヤ人政策

――1920年代

ハンガリー王国で最初の反ユダヤ法は、1920年に出された大学への登録制限である。

第一次世界大戦の終結――というか敗戦は、それまで制度に蓋をされてきた反ユダヤ感情の噴出を惹き起した。特にユダヤ人にとって災いだったのは、短命なソビエト体制下で行われた赤色テロである。この時、ロシア革命を真似た無分別なテロルに加担した者の中には、当然ながら、それなりの数の教育のあるユダヤ人が含まれていた。ソビエト体制が転覆された後には報復的な白色テロが続き、ユダヤ人を標的とした襲撃が行われて、死者も出た。地方公務員や憲兵、軍人が主導していたケースもある。

大学への登録人数を人口比相当――ユダヤ人の場合は6%――まで制限する、という法令は、この反ユダヤ感情を踏まえてのものと考えていいだろう。新政権は安定の為に左右双方の支持を必要としたが、その右側対策である。行政のキリスト教化も目的だったという説もある。ドイツ語圏における大学では、大学課程を了えると「博士」の肩書きが付く。キャリア官僚には必須の肩書きだ。大学に入学するユダヤ人の数を制限するということは、キャリア組をキリスト教徒で固めることに繋がる。

ただしこの時点では、ユダヤ人とはユダヤ教徒のことであり、キリスト教に改宗したユダヤ人は含まれていなかった。反ユダヤ主義を掲げる政治団体さえ、標的はユダヤ教徒だった。ドイツ流の人種的反ユダヤ主義はまだハンガリーには定着していない――摂政ホルティに至っては、1940年代に入っても、ドイツとの交渉の中で、キリスト教徒はユダヤ人ではないだろうと漏らしている。

制限はその後緩和され、ベトレンの十年にわたる内閣とその後に続くカーロイ内閣においては、他に反ユダヤ政策が取られることもなかった。次々に出現する反ユダヤ主義団体も議会に議席を持つことはなく、直接政治を動かすこともなかった。摂政ホルティと彼を取り巻く貴族層は、特に反ユダヤ主義に反対ということはないとしても、積極的に加担しようともしなかった。反ユダヤ主義は大衆運動であり、貴族層は当然反感を持つ。それでもユダヤ系市民の感じていた圧迫は、キリスト教への改宗が急速に進んだことからも窺える。1938年の数字では、改宗者はユダヤ人全体の10%に及び、シナゴーグは信徒数の減少に悩んだ。二重帝国時代の改宗率の低さからは想像も付かない事態だ。

雲行きが怪しくなるのは1929年10月以降である。

敗戦直後のインフレから回復してきた経済を、大恐慌の影響が直撃した。ハンガリーの輸出品目は主に農作物と工業材料で、引き換えに繊維製品等を輸入することで成り立っていたが、一気に萎んだ経済を守るためにチェコを含む輸出先諸国は関税を引き上げ、ハンガリーもそれに倣った。結果、対外貿易は激減し、農業と重工業は大打撃を被ると同時に、専ら輸入に頼ってきた品目が品薄になった。

こういう状況で必ず噴き出すのは、排外主義でありマイノリティの排斥だ。そして敗戦以来、ハンガリー国内で最も目立つマイノリティはユダヤ人だ。反ユダヤ主義運動は伸長し、従来の異なる信仰や習慣を持つユダヤ教徒排斥だけではなく、ドイツの影響を受けた人種的反ユダヤ主義を掲げる団体も出現する。