『黄金列車』についての覚書 II

ハンガリー王国1920-1944

第一次世界大戦終結まで、ハンガリーはオーストリアと俗に二重帝国と呼ばれる政治体を形成していた。同一の君主を戴くが軍事外交財政以外は独立した王国、という体制である。

1918年に皇帝であり国王であるカール一世が退位するとハンガリーは離脱して完全に独立、短い共和制と共産党社民党相乗りのソビエト体制を経た後、保守勢力の巻き返しによって再び王国となるが、戦勝国がハプスブルク家の国王を立てることを拒否した為、帝国海軍提督ホルティが摂政として、国王空位のまま、元首の権限を握った。

首相は摂政が任命し摂政にのみ責任を負った。二院制の議会はあり、選挙も最末期までは普通に行われ、複数の反ユダヤ主義極右団体が活動していたが、1921年から1931年まで続くベトレン内閣と、その後に続くカーロイ内閣の間は議会に議席を獲得することさえできなかった。何よりも摂政本人と彼を取り巻く貴族層が、別に開明的ではないのだが、極右の暴走を警戒し牽制していた。最末期にナチス・ドイツの全面的な支援を得た矢十字党が全権を掌握するまでこの体制は続いた。経済も、終戦直後のインフレの後は1929年11月の大恐慌の影響を被るまで、まずは順調な回復を見せていた。両大戦間の中部ヨーロッパの国家としてはましな部類だった、と言える。

 1930年代、ハンガリー王国が抱える問題は三つあった。第一には第一次世界大戦後の戦後処理で近隣諸国――チェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアに奪われた領土を奪還すること、第二は1929年の大恐慌の痛手からの回復、第三は、これは擬似問題だが、ユダヤ人問題だ。