浅ましい人々 1

いかに千野帽子でも浅ましすぎるだろう、と思ったので書いておく。

 

千野帽子氏と最初に接触したのはネット上で、星新一氏の作品をめぐってであった。彼は、氏の作品には描写がない、と言い、描写がないのでエンターテインメントであって文学ではない、文学には描写が必要だ、と主張した。

 しかし描写を意図的に欠落させある種の無機性や非生物性・非人間性を出現させる技法は、文学の技法としては極めて一般的である。意図的にその技法を採用した作品が、偶々エンターテインメントとして分類されているからと言って、エンターテインメント故の文学性の欠如を主張するのはフェアではない。

 (フェアでなくてもいいんだ、人生はアンフェアなものだ、という反論はなしだよ。前にもやっていたが、人生はフェアではないとしても、人はフェアであろうと努める義務がある。何故なら社会の多くの制度は従事する人間がフェアであろうと努めていることを前提としているからで、批評や評論といったものもその一つだ。それがなければただの感想であり、価値判断に対するいかなる権威も持たない)

 そして広く文学上の技法とされているものを採用しているから、ある作品を文学ではないと断言するのは非常に馬鹿げたことだ。

 私はそう指摘し、千野帽子氏は激怒した——自分を馬鹿と言った、と。そしてそれ以来、事ある毎に私の仕事=作品の価値を貶める為に尽力している。彼は、以前日経ビジネスだったかに「日直のチノボーシカです」と言いながら書いていたコラムを見れば判る通り、優れた批評家であることもできる人だが、単なる一瞬の勘違いからその全てを特定個人を貶めることに蕩尽するのは、これもまた馬鹿げたことである(千野氏個人を馬鹿といっている訳ではなく、やっていることを馬鹿げていると指摘していることにはご注意いただきたい——どれほど賢明な人でも、一瞬の不注意や感情から馬鹿げたことをやることはある)。

 そして彼は、文学の全領域に対する価値の審判者である権利を主張している。これもまた馬鹿げたことだ。文学と言う時そこに含まれるのは小説だけではなく詩や短詩系文学も当然含まれる。戯曲も含まれる。歴史記述や回想も含まれる。新聞や雑誌の記事も、今日ではweb媒体に掲載されるプロアマ入り乱れての記事も含まれる。所謂「ちら裏」(ちらしの裏面に書きなぐられたようなもの、という意味らしい)さえ含まれる——これは、例えば二百年三百年の後、そういうものが残っていれば文学研究の対象にもなり得ることを考えればご了解いただけるだろう。文学は無数の小さな領域に分たれ、それぞれの領域でそれぞれの人が、それぞれの価値基準を以て仕事をしている。小説の領域一つ取っても、それは更に細分化され、それぞれの従事者の価値観に従って書かれ、世に問われる。ある小さな領域の価値観で他の領域の仕事の価値を判断することは、勿論できない。歴史記述を指して描写がないから文学ではない、と批判するのは、星新一氏の作品を指して描写がないから文学ではない、と言うことと同じくらい愚かだ。そしてそれが愚かだと指摘することは、必ずしも、描写があることを愚かだと言うことではない。描写を必要とする作品に描写が欠落していることを欠点として指摘するのは間違いではない(そしてある作品が果たして描写を必要とする作品であるか否かには、勿論議論の余地がある)。ただその有効領域は限定されている。

 これは特に、マイノリティの仕事に対して注意すべき点だ。非男性非白人非ヨーロッパ文明圏の人間の作品を、男性白人ヨーロッパ文明圏の人間の価値観で直ちに却下することはできない。そこには固有の文脈や価値観が存在する可能性があり、そうした固有の文脈や価値観をも注意深く深く拾い上げ、造形として再現し再構成することが、文学作品を読むという行為であり、批評の役割でもある。逆もまた逆であって、男性白人ヨーロッパ文明圏の人間が固有の文脈固有の価値観で書いたものを、固有性を指摘しながら再現し再構成することが必要となる。特定の社会で行われる文学行為についても同様で、例えば千野氏は集団的に行われる短詩型文学の実践に強い関心を持っておられるように思うが、その集団の性質或いは偏り(男性主導であり、権威や価値観の偏りが判断に強く反映されているであろう、と推測することはそれほど難しいようには思えない)を完全に等閑視し、ただ集団的創作である、という面だけを利点として強調して、他の場所——「小さく特殊であるだけに魅惑的な云々」——の仕事を裁き却下するのに用いることは不当である。ましてそれが、特定個人に対する強い憎悪に主導されているのでは。文学を権力闘争の道具に用いることは、これもまた愚かである。かつて彼主催の句会などにも出席し、特に敵対的な姿勢を取ったこともない人物が、一貫して、彼が敵視する人物の作品を高く評価してきたからとこういう愚劣な批判に引きずり込むことはそれにもまして愚劣であさましく醜悪だ。

付記:さすがにこれは消したらしい。

こういうのに常時曝され続けていると感覚が麻痺する、という問題はあるかもしれない。憎悪の言説の坩堝の中で、憎悪の言説を浴びせかけられながら長い時間を過ごすと、自分も憎悪の言説で応じるようになる。不快を感じられた方々、傷付けてしまった方々には深くお詫びする。

順次公開の予定。