電子出版を自分で始めるに至る諸事情

今回の件については幾らか説明が必要だろう。是非御理解いただきたい点は以下の通りだ。
I. 今後はKDP他の自己出版を作品公開の主たる場にしていく。自作を公開する場として、紙媒体の市場は必ずしも最適ではないと考えるに至ったからだ。
II. その主たる理由は、紙媒体化と流通を媒介する出版社のあり方に起因する。具体的に挙げるなら以下の通り。

i.  出版社と著者の間にある極端な非対称性。相手は大企業とは言えないまでも相当に大きな組織であり、著者は個人だ。そして両者の間には、稀に事後的に出現するもの以外、書面による契約はない。つまり制作・納入・製品化・販売の過程においてどのようなことが起ころうと、著者側にはそれに抵抗する手段がほぼない、ということになる。著者と出版社の間を繋ぐのは出版社の社員である編集者であり、極端な不利益を被らない保証は、この編集者の誠実さにしかない。

ii. その編集者の誠実さは、構造的な理由から、非常に疑わしい。人格として疑わしい、とまでいう気はない。実際、個人としては誠実であり信頼に値することもあるだろうと、私は今でも考えているが、そういう個人が誠実に振舞えない状況がしばしば出現する。考えられる理由は以下の通りだ。

a. よく言われることだが出版点数の極端な増加、および出版不況の定着により編集者一人当りの仕事量が増え続けていること。多くの編集者は、にも拘らず、誠実な仕事ぶりを維持しようとはしていると思う。が、個人の努力には自ずと限界があり、どこかで楽になりたいと思うようになるのは人間として当然の話だ。

b.  市場把握の甘さ。

・編集者から具体的な市場セグメントの話を聞いたことがない。データがないのではないかと疑っている。松本清張や三島由紀夫を日本中の本を読む人間なら誰でも読んでいた時代を懐かしみ、そういう本を目指している、と言うのを聞くことはよくある。が、当時の書籍市場は今とは比較にならないほど小さい。村上春樹の新刊はおそらく当時のベストセラーより部数を売るだろうが、書籍市場に占める割合においては比較にならないのではないか。芸能人に書かせるのもよく使われる手法だが、芸能人を知っていて有難がる層にしか訴求力はなく、そうした層自体が縮小しているのは地上波の低調でも明らかだ——まあ、その規模で十分ということかもしれないが、どの市場もそれだけ細分化されたところで往時を夢見ても仕方がない。

・そういう夢を見ているような観点からの提言はしばしば受けた——曰く、若い読者層を開拓すれば市場全体を広げることになる。ところで若年層が実際にどの程度の潜在市場なのか具体的な数字を挙げられたことはないし、その定着率も不明だ。webなどを介した個人的な感触では、多くの読者が就職を機に小説から離れ、更に三十代で脱落する。そうした中で本を読み続けるのは子育て中の主婦だが、狭い行動半径と制限された予算を余儀なくされる為、彼女らは図書館に向かう。この層を繋ぎ止め、子育てがひと段落付いた段階での購入へと繋げるには、むしろ図書館での貸し出しを積極的に推進するのが妥当だが、実際に出版社が望んでいるのはこの逆、というのは皆さんご承知の通り。この層は図書館で借りられなければ古書市場に向かうだろう。新刊市場には戻って来ない。

・具体的なデータの欠如、は編集者からの要請においても疑われる。例えばある時期、呆れるほどライトノベル的な書き方を要請される時期があった(地の文を少なく、会話を多く、状況は会話で説明、嬉しい時には嬉しいと、悲しい時には悲しいと書く、等など)。ただしその時期には既にライトノベルも市場の縮小が問題になっていた。何かが流行っている、という状況でそれを追い掛けて書き始めても遅い。そういう動向は事前に把握して仕掛けるのが当り前だ。

 ・おそらく小説の最大のヘヴィユーザー層は三十代以上の女性であり、ほぼ均質に六十代まで広がっているのではないかと思われる。量だけではなく、質においても最も高水準なものを望む読者だが、この層がターゲット、という提案は僅か一度しか受けたことがない。書籍市場においては完全に見失われたセグメントだ。

c. 上記の二つの要因——即ち多忙とマーケティングのほぼ完全な欠落から、編集者は託された原稿を既存の枠組に機械的に押し込んで流すしかない。ホラー・ミステリー・SF・歴史、といった枠組がそれにであり、予め十全な文学性が無条件に認められる文学と、予めあらゆる文学性を剥奪された非文学=エンターテイメントという区分が更にその上に重ねられる。出版産業の従事者は文学によって虚栄心を満たし、非文学によって稼ぐ。これはある種の身分制であり、後者から折々「養子」を取ることで閉鎖性の非難を躱そうとする(いやもうね、某社の文芸誌の編集者とか某新聞社の文芸記者とか、かつて担当だったことがあったりインタビューを受けたことがあったり大家の開いた集りで楽しくお話ししたりしたことがあっても、パーティで声を掛けるとそっぽ向いて返事もしないからね——あたくしはあなたのような身分卑しき者に声を掛けられる理由はございませんことよ。これは作家も同様。辻邦生が一々第三者を介してでなければ返事もしなかったこと思い出すわ。あの時の死んだ魚みたいな目な)。出版社が作品によって柔軟に分類して売る、該当枠がなければそれを作って売る(所謂市場創出型のマーケティングな)とかいうことは一切ない。これが産業としちゃまるで駄目な姿勢、ということはお分かりだろう。彼らはみすみす機会をどぶに捨てている。より具体的には、こちらが提供した作品を。

d. 個人としての編集者がどれだけ誠実であり、どれだけこちらの提供した作品を理解していてくれたとしても(それは非常に稀なことだ)、彼らは会社員である。つまり、社内的な保身の為に出入り業者(作家、だね、この場合は)を切ることはごく当り前にあり得る。通俗的なお話に基く社会通念では、担当編集者は作品の第一の理解者であり身を挺してでも作品を守るものだと思われているが、そういうことはない。あるとしても限度があり、その限度は弱小出入り業者である作家が安心して仕事ができるほどの水準にはない。価値がないものを書いている側に分類された作家であれば尚更だ。

iii. 「メッテルニヒ氏の仕事」について言えば、そういうことは二度起こった。最初は新潮社において。次いで文藝春秋において。つまり新潮社が例外ではなく、これは当り前に起こることだ。後者が商業作家として十五年、延命させてくれたことには感謝しているが、最終的には「メッテルニヒの業績なんてウィーン会議まででしょう」という元編集長の有難いお言葉(私は全ての編集者が高校の世界史履修レベルの知識を持っていることを期待したりはしていないが、それでもコングレス・システムやドイツ連邦全域共通の検閲制度の持つ意味について、比較的新しい通説に基いて書いた部分は目を通していると思っていた——いつまでもウェブスター、テイラー、って訳にもいかんでしょ)と共に終った。二度起これば、これは構造的な原因から来るものであって偶発的な不運ではないと判断するには十分だ。三度目を試す気にはなれない。完結させるには、紙の本の出版流通システムの外に出るしかない。

III. ついでなので、同社から出ていた本の電子出版は全部自分で仕切ることにした。同社は「メッテルニヒ氏の仕事」の掲載に及び腰になる過程で、紙の本の方をほぼ全て絶版にしている(何が起こったのかは、出版社の内部が作家の目からは完全なブラックボックスである為、言及しない——編集者がいきなり全員逃げ出すとか、後始末を押し付けられた若い編集者も投げて逃げ出すとか、結局また引き受けることになった編集者が一年以上音信不通とかいう状況からして想像は付くが。こういうのは出版産業では当り前なのだと諦めるしかない)。
IV. 講談社から一月に刊行予定の新刊、及びその後に約束している作品については、従来通りの手続きで刊行される筈である。確約は、上記の理由で不可能だ。ただし、現在紙の本が重版未定または絶版のものについては、契約更新をせずに手許に引き取り、文藝春秋刊のものと同様にする計画でいる。
V.「メッテルニヒ氏の仕事」は、先にも書いた通り、自分で電子出版で出す。以後もこれを基本とする。ただし、そうやって公表されたものを紙媒体で出版したいというところがあれば交渉には応じる。また、全文の雑誌掲載前提での執筆・出版にも応じる準備はある。短期的な取引なら問題が生じる可能性は少ないと判断したからである。
以下は個人的な追記のようなものだとお考えいただきたい。
「メッテルニヒ氏の仕事」の連載中断以後はかなり思い悩んだ。そして「吸血鬼」を書いている最中に、書くのがこれほど楽しく、出版すること——出版社と関わりを持つことがこれほど不愉快なのは何故なのかを考えて、結論に到達した。当てにならない他人に任せ続けることがそれほど不快なら、やめてしまえばいい。
現状、電子出版の見通しはそれほど明るくない。作家としての事実上の自殺だとは思うが、それでも生身の人間として死ぬよりは余程ましだ。少なくとも、楽しく書いていける。心労しかない二十五年の地獄の後で漸く青空が見えた気がする。人生の残り二十五年を、こんな虚しい取引に心を悩ませて過ごすよりは余程いい。